「ギルベルトの余裕のない顔が見てみたいんです」
むせ返るような暑さの日々も徐々に和らぎ、穏やかに秋に近づき始めたある日のお茶会でぽつりとこぼれた言葉にエリザベータは己の主を見上げた。
「…え? 菊様、それは…」
「…あ! いえ! その、そういう意味ではなく…」
その言葉がどういうふうに捉えられたか察した菊の顔が瞬時に真っ赤に染まった。
「あー、まぁ…あいつ基本的に無表情ですからね…」
その真っ赤な顔があまりにかわいく…いや申し訳なく、言葉を返す。主についつい不埒な思考を働かせてしまう己の行動を少々改めねばならない。
この国の第十三王子、菊を守る護衛部隊の隊長、ギルベルト・バイルシュミット。泣く子も黙るどころか屈強な騎士すらその顔を見れば青ざめる。冷酷無慈悲と言われた元王国騎士団長でバイルシュミット公爵家の次男。運命の子の中でも希少な『銀の子』。そして目の前の小さな主の恋人だ。
「エリザベータやローデリヒならば表情の変化もわかるでしょう? それがちょっと羨ましいのもあります」
私は主としてはまだまだですねぇ。とふわりと微笑むその顔はとても齢十六とは思えぬほどに達観している。
「でも、菊様といるときはだいたいあいつ、百面相してますよ」
「? そうなんですか?」
今は鈍い琥珀色の瞳を大きく瞬かせ小さく首を傾げる様は年相応、いやそれ以上に幼い。成る程これはひと目見たら守りたくなる者が続出するのもうなずける。うちの主可愛い。今年の護衛騎士採用試験は例年の数倍にも跳ね上がっていたな、と一人納得していれば視界の端の扉が目に写った。
「うーん…灯台下暗しといいますか…そうですね、菊様ちょっと…」
内緒話をするようにちょいちょいと手招きすれば可愛い主はすんなりと自分の横に移動する。
「菊様にだけ、効果がある言葉があります」
「私だけ…」
「そうです。眠る前にこう言えば良いんです」
真剣な眼差しの主にそっと耳打ちすれば徐々にその顔が再び赤く染まる。
「え、エリザベータ? 私に一体何をさせる気で…うわっ!」
その場面を想像してしまったのか羞恥で首まで真っ赤にした主が視界から外れる。
替わりに現れたのは己と同じ漆黒の軍服に身を包んだ銀色の人物。
「エリザベータ、何吹き込んでやがる」
「別にあんたに利害があることは何も言ってないわよ。それよりあんたの大事な恋人に今のその顔見せてやりなさいよ。きっと喜ぶわよ」
「はぁ?」
「え? え? いまギルベルトどんな顔しているんですか?! ちょっと下ろしてください!」
ものすごい形相でこちらを睨んでいたかと思えば今度は頭に疑問符が乗ったような困惑顔に変わり、肩に担いでいる主をちらりと見つめる。
「…どういうことだ」
「まぁまぁ、今夜は楽しみにしてなさいってね。ねぇ菊様?」
エリザベータの言葉にジタバタと暴れていた身体がピタリと動きを止めた。
「うぅ…私の心臓のほうが持ちません」
「対価を得るには多少なりとも代償が必要ですよ。菊様頑張ってください」
その後の代償のほうが大きくなりそうだ、とは言わずニッコリと微笑むとギルベルトは小さくため息一つこぼしそのまま去っていく。
ああ、これは今からだわ…と先程決意したばかりのことを破ってしまうが仕方がない。自分の周りが楽しいのがいけない。
広くなった部屋で一人楽しく今日の日記の内容を固めていれば控えめに扉が開かれた。
「遅れてしまいましたね。おや…? ギルベルトが向かったはずですが。菊の姿もありませんね」
穏やかで落ち着いた声がまるで心地よい音のように紡がれる。
「あ、ローデリヒさんいらっしゃい。菊様ならさっきギルベルトが連れ去っていきましたよ」
廊下ですれ違わなかったのならば二人が向かう先は一つしか無い。この館の一番奥。我らが主の寝室だ。
「そうですか…。なにか収穫でもあったんですか? エリザベータ、顔がほころんでいますよ」
定位置の席に腰を下ろしたローデリヒに、あたたかい珈琲を淹れていればなにかいたずらを見つけたように小さく笑う。口元のほくろが彼の上品さを際立たせているように思えた。
「ふふ…まぁいつものですよ。ローデリヒさん」
そう言って微笑み返した自分の顔はきっと”いつもの”笑顔なのだろう。
いつもの、を察したローデリヒがゆっくりと珈琲カップを傾ける。
二人から見れば私もきっと百面相になったのだろうな、とエリザベータは己の胸につぶやいた。
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