双頭の黒鷲が描かれた二頭馬車がゆっくりと停止すると濃紺の軍服を身にまとった男が降りる。周囲を素早く警戒すると短く合図した。
馬車を護るように前後には騎乗した護衛が4人、乱れることなく止まる。
程なくして男の後に現れたのは紋章から抜け出たかのような漆黒の髪に黒い軍服姿の小さな子供だった。
「菊」
男の平坦な声に名を呼ばれた子供ー菊は顔を上げて嬉しそうに男の名を呼ぶ。
「ギルベルト」
しゃがんだギルベルトが菊の身体を抱き上げると小さな手が濃紺の軍服をしっかりと握りしめる。菊が寒くないようにギルベルトは背中に掛けていた外套を自分ごと包めば、隙間ができないように密着してくる。
小さな体からわずかに伝わるぬくもりにじわりと身体があたたまっていく。
「さて、あまり長居はできねぇがどこに行きたい?」
式典が終わり数時間。うたた寝から目覚めた菊を連れて己の居城で留守を護る者達へ、土産のために散策する。王都の通りは未だ沢山の人で賑わっていた。
自分たちの姿を遠巻きに眺める人々など気にもとめず色とりどりのお土産物や料理の並ぶ屋台へと歩む。
普段目にしないモノに鈍い琥珀の瞳を輝かせて矢継ぎ早に聞けば、子供の菊でもわかりやすい言葉でギルベルトが答える。
親子か、年の離れた仲の良い兄弟かのようなその光景は実は今までほとんど公の場に姿を出さなかった王子とその騎士だ。
突然現れた末弟の王子と騎士に目を丸くする者や明るく声かける者など様々で、買い物途中の女性にオススメを聞くとギルベルトを見つめた若い女性は白い頬を染めて答えた。
「このお店のバウムクーヘンは普通のものだけでなくチョコのかかったものもありおすすめですよ」
女性が指差した先には白、黒、ピンクでコーティングされたバウムクーヘンがガラスケースに立ち並ぶ。木の年輪に似ていることから木のケーキと呼ばれるクーヘンをギルベルトは何度か口にしたことがある。
卵、砂糖、小麦粉、バターで作る素朴な味わいはどこか懐かしくやさしい。初めて見る焼き菓子の、華美になりすぎない色合いを気に入ったのか軍服を掴んでいた手が揺れる。
「ギル、ギル!」
「もうすぐご飯だろう。ここで間食をして後で全然食べれなかったと落ち込むのは目に見えている。駄目だ」
「むぅ…」
「ひとくち、味見だけなら良いだろう? 騎士さん」
幼子特有のふっくらした頬を更に丸めて講義する菊に頑としてゆずらぬギルベルト。
二人の前に店の主人がトレイを差し出す。白磁の皿にはガラスケースにあるクーヘンと同じものが一口サイズで並んでいた。
「ホワイトチョコ、ビター、イチゴです。クリュザンテ―メ(菊)様はどれがお好きですか?」
「いちご! いちごは甘くて大好きです!」
頬を上気させて喜ぶ菊の姿に壮年の主人が目を細めて笑う。
「それは運が良かった、イチゴは季節ものですから。さぁどうぞ」
「…一つだけだ」
店主と菊の二人の視線に折れたギルベルトに、見守っていた女性の笑い声が漏れる。
右手で菊を抱え、支えていた左手はトレイの上にあるフォークを掴みイチゴのクーヘンを刺す。菊の口元へやればクーヘンがこぼれても平気なよう手のひらを胸元であわせ、小さな口を一生懸命大きく開いて一口かじると菊の周囲に花が咲いているかのような錯覚がみえた。
残りもぺろりと平らげた菊の口元に残るチョコを、ギルベルトが掬い舐める。僅かな欠片でも苺の甘さと酸味が舌に広がった。
「ああ、これは美味いな。苺の酸味がする」
「ギルもあーんしてください」
「…は?」
「あーん?」
苺のチョコレートに感心していたギルベルトへいつのまに持っていたのか、フォークに刺したクーヘンを口元へと掲げている。
ホワイトチョコレートのかかったクーヘンと琥珀の瞳。交互に見つめること数十秒。
「ギル、あーん」
三度目の催促に店主と女性、菊の瞳がギルベルトを貫く。やがて観念したギルベルトが俯いてひとくち。鍛えられた身体からわずかに影の残る端正な顔立ちに、瞼を半分伏して顔を傾けた様は色めいていて見てはいけないものを見てしまったという羞恥心に女性が両手で顔を覆う。
「これは、ウィスキー…ラム酒か?」
クーヘンを口にした途端広がるアルコールがホワイトチョコの甘さを抑えている『大人の味』に、ギルベルトがゆっくりと味わっていると店主が2つのクーヘンを並べる。
「大人用のと子ども用に2種類あるのさ。さすが菊様だ。騎士様がどっちが良いのかわかってる」
そう言いながら店主が笑う。菊がラム酒入りの方を口にしようとすればきっと止めたのだろう。
「ギル、お土産ここにしましょう。お菓子なら城まで持ちますよね?」
「ああ。だが全員分は難しいな、数が多すぎる。買い占めてしまってはここを楽しみにしていた人が食べれなくて悲しむだろう?」
ギルベルトの言葉に菊の眉が下がる。さっきまでの嬉しそうな顔がとたんに泣きそうなほど辛い瞳で俯いてしまった。
「それはだめです…でも、どうしましょう…」
「これからお帰りなのかい? 時間があれば焼いて準備できるけれど」
二人の状況を見ていた店主から思わぬ一声がかかる。建国祭の催しは城下では前後一週間続くが菊達は遠方のため滞在は3日と短い。
「明日の昼過ぎには出発する。人数は80人程だがー」
「ならこれから焼けば十分間に合う。菊様が気に入ったんなら頑張って用意しなきゃね」
こーんな長い棒で20人分は一度に焼けるからね、と両手を広げた店主が心配そうな菊へと微笑む。
「…ではお願いしよう」
ギルベルトの男らしい手が艷やかな黒髪を撫でればほころぶように小さな主が笑った。
後に苺とホワイトチョコのクーヘンには『菊様、ギルベルト隊長お気に入り』のプレートが飾られ、城下の人々にちょっとしたブームとなっていた。