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第二節 出会いと争いと
ギルベルト達が第十三王子の菊を育てはじめてから五年程経過したある日――
王族が管理する古城を改築して移り住み、城の居住区の一角。統一された色合いと華美になりすぎない装飾が主の気だての良さが現れる部屋で赤褐色が美しいマホガニーの執務机に向かう主を二人の騎士が囲んでいた。
「当主はオトフリート・シュタイネル。爵位は男爵。本来ならこのような招待は受けませんが、彼の妻が王族の傍系になります」
つい先日この城の主宛に届いた手紙には王子の成長を喜ぶ文面と共に近々館にて晩餐会を開く旨が綴られており、机には他にも同じような内容と色の違う蝋印で飾られた封書が何通も折り重なっていた。
毎日届けられる手紙のほとんどは自分たち騎士の仕事のものだが時折貴族から贈り物とともに手紙が贈られてくる。王族と貴族の階級は違えど嫌と言うほど身に覚えのある手紙の数々にローデリヒが小さく息を吐く。隣に立つエリザベータが手にした書類を呆れ顔で眺めていた。
「王族と言ってもかなり遠くに連なりますね。実家は大方没落しそうになったので娘を差し出したといったところでしょうか」
別段珍しいことでもない。貴族に産まれた女性はその家の道具でしかなく、ヘーテルヴァーリ家(エリザベータ)のように騎士や他の役職を持つ者の方が珍しい。
「毎年、誕生月に手紙を寄越しています。私たちが菊様を引き受けて手を引くかと思っていました」
「南方の辺境男爵も熱心なことだ」
深紅の双眸を細め呟いた声には少しの関心が混じる。
「……そろそろ頃合いでしょうし、そこまで望むのなら一度赴いて差し上げましょう。菊にも丁度良いお勉強になります。良いですね? ギルベルト」
ローデリヒの穏やかな声に隠された企みに眉間の皺が寄る。ただ招待されるだけでない事は明白だ。
「……いいだろう」
五歳となり家庭教師をつけ他人との付き合いも始めたが、まだ幼い主への負担を考えると本音は拒否したい。だがギルベルト自身もこの男爵とは一度顔を見せなければと思っていたのだ。問題を後回しにする理由はない。
「あんた、過保護すぎると嫌われるわよ」
「うるせぇよ」
珍しくすんなり了承したギルベルトにエリザベータが苦笑する。ローデリヒが返事を綴ろうとしている横でいつもの口喧嘩が始まろうとしていた。
***
自分の領地外へはじめての遠出と長距離での馬車移動に疲れた菊の身体を案じギルベルトがその身体を腕に抱く。五年という歳月で随分成長したと思ったがそれでもギルベルトが優に片手で抱いたまま走り回れるほど軽い。無理をさせていないか身動き一つしないのを不安に思う。その顔を覗けば大きな瞳を瞬かせ小さく微笑んだ。己が案じていたよりも元気な姿に目を細めると不安と緊張で張りつめていたその身体から力が抜け細い腕がギルベルトの外套越しに首へ巻き付く。こつり、と額を合わせて真正面の琥珀を見る。
「俺がいるから大丈夫だ」
前を歩いていた執事が扉の前でこちらを振り向く。視線で了承すればその重厚な扉がゆっくりと開かれた。
贅の限りを飾り尽くした装飾と太陽よりも華やかに輝くシャンデリアが照らす晩餐会の会場に、色とりどりのドレスや夜会服に混じり漆黒の軍服が現れると室内が大きくざわめく。
何処で聞いたのか自分達が出席することを知った暇な貴族達で会場内はひしめき合い、滅多に公の場に姿を現さない十三王子の姿を一目見ようと好奇の目がギルベルトと菊に突き刺さる。だがこの場に恐れるものは何一つない。たとえこの群衆すべてが相手でもこの腕の主を守れる自信がギルベルトにはある。
やがて人々の群が割れ金の装飾で豪華に飾られた男が女性を連れ立こちらに向かってくる。腕に抱いていた菊を降ろし今日の主催へ挨拶を促した。
「本日はこのような華やかな場への誘いをいただき嬉しく思います。プロイツェン王国第十三王子の菊です。そして、こちらは私の騎士のギルベルトです」
ゆっくりとけれど凛とした声が紡がれれば騒がしかった会場が一気に収束する。目の前に立つ男は菊の言葉に満面の笑みを浮かべた。
「遠路はるばるこのような地へお越しいただきありがとうございます。私が今回このささやかな主催を務めさせていただきます、オトフリート・シュタイネルと申します。どうぞお見知り置きください。菊様、ギルベルト殿」
恭しく丁寧に下げた頭を上げオトフリートが促した先にはワインレッドのクロスが艶やかに光沢を出しテーブルを包みその周囲に数脚の椅子が並ぶ。舞踏会は始まったばかりだが幼い菊のために用意したのだろうその席にギルベルトは菊を膝に乗せて腰を下ろした。目の前の席にオトフリートが着けば待機していたメイド達が音もなく静かに給仕し始める。
シャンデリアからの光りを余すことなく反射する小さな杯には葡萄水とギルベルトには食前酒が用意されテーブル上でオトフリートがグラスを掲げると今宵の晩餐会が始まった。
「菊様の護衛が王国随一と言われていたギルベルト殿であることは噂で知っておりましたが、暗殺を恐れ私がお守りしていた菊様を保護したのがまさか貴方だったとは……!!」
「……ああ、その件には感謝している(・・・・・・)。礼を言わせてもらおう」
最初は菊へ今の生活について、好きなことや得意なことを質問していたがその話が護衛騎士へと変わるとギルベルトの過去の栄誉を称賛し始める。オトフリートの言葉に興味など無く演技がかった言葉とは対象に淡々と返すも男はパンを掴んだままの手で腕を広げ首を振った。
「いえいえ、私のようなものにできたのはあのくらいです。菊様がこんなにも大きくなられたのもきっと貴方のお力あってこそでしょうな」
主賓である王子に取り入る必要はもうないのかギルベルトを見据える。まるまると肥えた顔に収まる瞳がぎらりと輝き先ほどまでの人の良い笑みは消えさっていた。その下卑た微笑みが続ける。
「私は貴方を高く評価しているのです。――そして、期待も」
「……」
「騎士団を去った貴方がもう一度世に返り咲くために、どうでしょう。私の元へ来る気はありませんかな?」
それまで頭上の会話に静観していた菊がびくりと身体を震わせる。腰に回していた手で菊の腿を優しく叩けば小さな両手がギルベルトの裾を掴んだ。
「……それは俺を引き抜く、と?」
会話から感じていた違和感。晩餐会の目的は菊とのお目通りではなく護衛である自分の誘いだったのか。
「ええ。私の妻は王族の家系です。今度こそ必ずや満足のいく名声を手に入れられましょう。菊様もそろそろお年頃だ。少々手の掛かる頃ではないのですか?」
ギルベルトの言葉ににたり、とその笑みを深くする。主の目の前で堂々と、皮肉ですらないその言葉に腹の底が冷えていく。自らは名のある騎士を手に入れ邪魔な王子はその後にゆっくりと消す。歪んだ顔がその男の全てを物語っていた。
「……ギルは、何処かに行くのですか?」
難しい会話に水を差せまいと黙っていた菊が声を震わせギルベルトを見上げる。その顔は不安に琥珀の瞳を滲ませて今にも涙が零れるのを必死に耐えていた。
ギルベルトの胸に痛みが走る。
「菊様、隊長さんとは離ればなれになりますが菊様はお強い子ですから大丈夫でしょう?」
「だ、駄目です! ギルベルトはあげません。菊のです。ギルは菊のです!」
オトフリートの言葉に菊が叫ぶ。その瞳は強く目の前の男爵を睨みつけてほのかに淡く輝く。
「菊……?」
「ぎる、は……っ! ……ふぇっ……」
「……おやおや、泣かせてしまいましたか。申し訳ない。まだまだ子供でしたな」
自分に似て感情の起伏が少ない菊は滅多なことでは声を荒げることはない。ましてや泣くことも稀だ。自身の激情を叫んだことで感情のコントロールができず泣いてしまった菊をなだめるよう小さく囁くと己の胸で震えていた身体が止まる。
「それにしてもこれではせっかくの食事もままなりません」
「……菊」
「っ……はい。だいじょうぶ、です」
相手が例え自分に好意以外(敵意)を向けていたとしても今は晩餐会だ。この場で泣き叫んでいられないことを菊も理解している。頬に流れる涙をガーゼで優しく拭えばその瞳は琥珀に戻っていた。
「最近、若くて腕のいい元王族専用料理人を迎えまして。味は保証いたします、どうぞ続けてお召し上がりください」
ギルベルトが自分の元へ来ることを妄信したオトフリートが食事を勧める。目の前に並ぶ食事を一別し、手を出さないよう菊を制した。
傍らに控えていた給仕に預からせていた物をテーブルに並べさせる。現れたのは自分たちが普段食事で使用している銀食器だ。
「…………ギル?」
「菊様には専用のカトラリーを持参しているので使用しても?」
「え、ええ。もちろんです。……どうぞお使いください」
晩餐会では出席者自らが食器を持参することが普通のためおかしいことではない。テーブルにあらかじめ用意されていた金色のカトラリーが下げられていく。
「末弟とはいえ菊様は金の子。他兄弟から疎まれることもあるがその命を狙う者もいる」
「……それは隊長殿からすればさぞ難儀なことでしょう」
「外敵からの襲撃は我々騎士がいるため問題ない。――だが」
銀のスプーンでターチュ・リエ(海亀のスープ)を数回かき混ぜる。丁寧に灰汁抜きをされ皿の底が透きとおり濃い琥珀が美しいとろみをきかせたスープは他に用意されていたものに比べ冷め切っていた。
「毒殺……食事に毒を盛って殺害しようとするのが一番厄介だ。丁度、こんな風にな」
「……っ――!!」
手にした銀のスプーンが黒ずむ。こんな古典的な方法とは舐められたものだ。
「銀の食器は毒に反応する。爵位を持つほどの人間がそれを知らぬはずがない。ならば答えはひとつ」
「な、なにを……毒とは! わ、わたしは知りませんぞっ!!」
毒という言葉に周囲が急激にざわめき始める。オトフリートが勢いよく椅子から立ち上がり己の潔白を叫んだ。
「……誰かが……そう、料理人の仕業だっ!! そうに違いないっ!!」
「オトフリート・シュタイネル」
「――ッッ!!」
狼狽する男の名を告げる。
「使える主が居なくなればお前の元に行くとでも思ったか? 笑わせる……富も名声もこれ(菊)に比べれば無価値でしかない」
腕に抱くこの小さな存在(菊)だけが灰色のただ過ぎゆく世界にひかりを与えた。ギルベルトを誇り讃える菊の言葉はどんな名誉にも勝るだろう。
「……っい、言わせておけば貴様ッ……!! 貴様など元団長の名(その肩書き)がなければただのクズでしかないのだぞっ!! たとえバイルシュミットといえど!!」
「……本音はそっちか。自分より爵位の高い人間を服従させて愉悦に浸りたかったのか? つくづく豚共の思考は理解できないな」
自らの爵位が上がらないのであれば身の回りを着飾り自身の価値をあげる。そんな欲でしか自尊心を保てない人間にギルベルトが仕えるはずもなく。
「公爵家の跡継ぎですらない分際で刃向かうなど!! 身の程知らずめ!!」
「ギルッ…………」
けたたましく扉を開いて現れた私兵がギルベルトと菊を取り囲む。この場の敵は十数、屋敷全体を合わせ用意されていても五十程かと思案する。招待客たちは自分たちに火が及ばぬよう部屋の隅に集まり中には混乱に泣き叫ぶ者も現れ始めていた。賑やかな広間が一変し張り詰めた空気が自分たちを中心に充満する。
エストックを構え自分たちを囲む輪の中からゆっくりと男が一人近づく。白い厨房服に似合わぬレイピアをこちらに向けて投げつけると今度は帽子を捨てた。
「Bonjour. せっかく俺が丹誠込めて作った料理に毒を盛るなんて食への冒涜だよねぇ?」
「フランシス!」
「Oui. 俺の小さな主様。ご機嫌はいかがかな?」
緊張したこの場にそぐわぬフランシスの声に菊の表情が晴れる。ギルベルトに抱かれた菊へ片目を瞬かせ殊更恭しくお辞儀するその姿は洗練された騎士の姿。
「フランシスの料理を楽しみにしていたのに残念です。遺憾の意、です!」
「ははっ! 菊様の食いしん坊は相変わらずだな」
「ボヌフォア! き、貴様っ……」
男爵自ら招待した料理人(フランシス)がギルベルト達と仲良く会話する意味をようやく理解したのか余裕の笑みを浮かべていたオトフリートが叫ぶ。
「裏切り? Non,non. 確かに俺は王族専用料理人……でも元じゃない。現役さ?」
「……フラン」
「おう。ギルベルト。お前さんの武器もしっかり預かってるぜ」
腰に下げていたフランベルクを外しギルベルトへと渡す。ギルベルト達を後ろに背に指したエストックを抜きさるともう一つのレイピアと共にゆっくりと構えた。
「……最初から、分かってここに来たのかっ……!!」
「いい加減目障りだったからな。お前のご希望通り出向いてやっただけだ」
「クソっ!!」
手早くフランベルクを装着し再び菊の身体を抱き上げる。床に刺していたレイピアを右手(・・)で抜き、目の前の敵を見据えた。
「だが元騎士団長といえど一度にこの人数は対処しきれまいっ!! 王国の逆賊としてその餓鬼と共に死ぬがいい!!」
「……菊」
オトフリートを見つめていた菊を呼べば自分へと顔を向ける。
「俺に掴まっていろ。良いと言うまで顔を上げるなよ」
「っ……」
ギルベルトの言葉と部屋を充満する緊張からこれから戦いが始まるのだと理解する。
「大丈夫だ。何も怖いことはない」
「……はい。ギルベルトは強いですから。大丈夫です。大丈夫」
自身を安心させるかのように何度も呟く。できることなら無血で済ませたかったが相手が望むのなら応戦するまで。流れる血は最小限に。無用な殺生は主の前では不要だ。
ギルベルトがその足を男爵へ向けゆっくりと歩き始めた。
「そんな……化け物、だ……」
倒れたテーブルに掛かる白いクロスは血に染まり、綺麗に磨き上げられた床は傷にうめき倒れる者達が転がる。戦意を喪失した者は皆、青ざめた顔でただ一点を見つめていた。
「……つまらん戦いだ。準備運動にすらならない」
血に染まるレイピアを見つめる。菊を抱いたまま黒の軍服に乱れた様子もなく平然と佇むギルベルトの顔には一切の感情はない。ただその瞳は真紅と青に輝いていた。
「冷酷無慈悲(騎士団時代)を知る人間は誰一人協力しなかっただろう? ……――銀の子を見誤ったのがお前さんの誤算だよ」
髪を大きく乱し体中を血で赤く染め、座り込んで震える男へフランシスが告げた。
***
南方男爵による第十三王子暗殺未遂。その事件から二月が経過しようやく事の全貌が明らかとなった。調査報告書は数十枚にも及び暗殺計画の立案者はギルベルト達が予想していた者の一人。
「計画は第四王子とその臣下の者とのことです……兄弟が手を組んでいたにしては随分とお粗末でしたね」
目の前に積まれた資料と報告書の山を眺めローデリヒはため息をこぼす。赤ん坊の菊を隣国との戦争に利用しようとしてギルベルト(直前)に失敗。なおも暗殺の機会を狙うが菊を守るのがかつての騎士団長と騎士団の実力者であれば適うはず無く。ようやく成長し外の世界へと現れた今がチャンスだと早計に計画したものは余りにお粗末だった。
「……元騎士団長(ギルベルト)の実力を計り損ねたのが敗因でしょう。私達からすれば”どうしてその人数で勝てると思ったのか”と、はなはだ疑問ですが」
エリザベータがギルベルトを見て苦笑う。
「結果、第四王子は王位継承権を永久剥奪に監視付き。関係していた臣下は全て処刑――」
計画に関わっていた者、その末端まで数えると数十は越える。
「……」
「何か気になることでも?」
資料の一部を睨みつけたまま沈黙しているギルベルトへ問う。
「領土没収でもなければ処刑、か。低いとはいえ爵位と王族の家系をこうもあっさり切り捨てるとはな」
「この国で『運命(さだめ)の子』に手を出せばどうなるか。王族も自分たちの未来がかかっていますから今回のことは見せしめの意味もあるのでしょう」
そこはローデリヒも気になっていたところだが暗殺対象が王族の金の子と、巻き込まれた形になったとはいえ公爵家の銀の子も含むとあれば王家も厳罰に対処しなければならないだろう。かつてこの王国の前は運命の子によってその定めを左右されてしまったのだ。
「それとも彼らも謀られていたのかも知れません。その真相は今となっては分かりませんがこれでお馬鹿なことを考える者も減るでしょう」
末弟の運命の子であるが故に王位継承権は持たないがその存在自体が他の兄弟にとって自らを脅かす火種でしかない。疎む者もいればいっそ消して安心したい者もいるのだろう。
だが菊を狙うのであればかつて国の内外にまでその実力を轟かせた王国の元騎士団長であり銀の子と、人の数倍の力を持つ強化人間が相手では到底勝ち目などない。平穏無事な日々が続くのを祈るばかり、とローデリヒがごちる。
「そうであってほしいです。ただでさえうちは人員不足ですから余計な手間は少ないに限ります。あれから菊様、庭に出るのも怖がってしまって……当面外出は無理そうですね」
「おや、昼間ギルベルトと一緒に散歩していましたが?」
資料を運ぶ途中に庭園を通れば菊に手を引かれたギルベルトが午後の日差しがあたたかに降り注ぐ庭をゆっくり歩いていた。その光景のまばゆさにローデリヒは思わず足を止め暫く様子を眺めていたほどだ。
「……」
「……なんでアンタだけ」
「ふん……ローデリヒ、報告はこれで終わりだな?」
「ええ。そうですが?」
夕餉も入浴も済ませたこの遅い報告会のあとには特に予定は無かったはずである。ローデリヒが顔を向けるとギルベルトはすでに扉の前へ立っていた。
「主が呼んでいる」
「……そうですか」
懐中時計を眺めれば時刻はもうすぐ日付を越えようとしていた。夜更かしは禁止していたが今日ばかりは大目に見てもいいだろう。卓上の書類を整理しようと手を伸ばすと静かな部屋にぽつりと声が響いた。
「育て方を間違えてしまったんでしょうか」
扉を見つめるエリザベータがこぼした言葉を考える。
「……それはどちらに?」
「え? ああ……両方、なんですかね」
未だ小さな主とその騎士と。二人の距離は自分たちが知る主従のそれよりも近くて深い。
「まぁこういうのはなるようにしかなりませんよ、エリザベータ。我々は二人が道を違えぬよう示すだけです」
「……はい。そうですね」
ギルベルトがあの日見つけたひかりは少しずつその輝きを増し周囲を照らしている。その成長がギルベルトと共にあることならば自分達はそのひかりが陰らぬよう全ての憂いを払うだけだ。
灯りを落とした寝室の小さな光が緩やかにかかるカーテンとベッドを照らしている。寝衣に身を包んだ菊はギルベルトが来るのを待っていた。普段はこんな夜更けまで起きていると怒られてしまうが今日だけは特別だ。睡魔に負けて眠ってしまう日もあるが今日は昼寝をしていたせいもありまだ眠気は訪れない。
寝室のドアが静かに音を鳴らす。と、すぐにカーテンが優しく開かれ菊が待ち望んだ人物が姿を現した。
「…誕生日プレゼントだ」
「っ! ありがとうございます。ギルベルト、開けても?」
ギルベルトはその手にした箱を渡すとベッドの端へと座り嬉しそうな顔でいっぱいの主を見つめる。はやる気持ちを抑えて丁寧に開いた箱には上質な絹糸で作られたタッセルが並んでいた。
「同じものがふたつ?」
「これは耳飾りだ。左右に付けるため対になっている」
「対に……」
ビロードが敷かれた底からゆっくりとそのタッセルを取り出す。さらさらと指に流れるタッセルを包む金属部は繊細な金細工が施してあり掲げた耳飾りと自分を見つめる穏やかな赤が並んだ。
「これ、ギルベルトの瞳と同じ色です。赤くて、とても綺麗……」
「――そうか」
菊の言葉にギルベルトは胸をなで下ろす。いつだったか己のこの深紅が好きだと言った言葉は変わっていなかった。
「……菊?」
光に照らし耳飾りを見ていた顔が突然陰る。その小さな唇は引き結ばれ、ギルベルトは静かに言葉が紡がれるのを待った。
「……ギルは、何処にも行きませんか? 菊から離れていきませんか?」
手にした耳飾りを見つめか細い声で菊が言葉にしたものはギルベルトが予想していないものだった。
「ああ。何処にも行かない。ずっとお前の隣にいよう」
晩餐会での言葉が菊の心に不安として残り、あれから穏やかに過ごしつつも時折思い出しては胸に小さな痛みを生んでいたのだろう。そのことを思うとあの男をもう一度処刑し(殺さ)なければという仄暗い闇が胸に滲む。
「なら、片方はギルベルトが付けていてください。二つでひとつの対なのでしょう?」
小さな手がそっとギルベルトの手に添えられた。
「ギルが何処にも行かないように。うんと、うんと頑張ってギルベルトに相応しい主になります。私は騎士ではないから、騎士の誓いはできないけれど」
金の瞳が光を反射しきらきらと輝く。
「ギルがくれたこの耳飾りに誓います。だからギルは、私の騎士である限りこの耳飾りをつけていてくださいね」
「……ああ。承ろう」
己を見つめる光がまぶしく目を細める。ギルベルトの短い返事に再び菊がその顔をほころばせて笑う。
「ふふ……ギルとお揃いです」
自分の予想以上にどうやらこの耳飾りは気に入ったらしい。耳飾りを箱に戻しサイドチェストへ置けば夜更かしは終わりだ。
「気に入ったのなら毎年贈る」
「本当ですか? では色は銀と金、あとは青も!」
ベッドに身体を預けその小さな身体に腕を伸ばす。抱え込んだ身体が小さく身じろぎするとゆっくりとその瞼は閉じ、やがて静かな寝息だけが二人の寝室に響いた。
ギルベルト達が第十三王子の菊を育てはじめてから五年程経過したある日――
王族が管理する古城を改築して移り住み、城の居住区の一角。統一された色合いと華美になりすぎない装飾が主の気だての良さが現れる部屋で赤褐色が美しいマホガニーの執務机に向かう主を二人の騎士が囲んでいた。
「当主はオトフリート・シュタイネル。爵位は男爵。本来ならこのような招待は受けませんが、彼の妻が王族の傍系になります」
つい先日この城の主宛に届いた手紙には王子の成長を喜ぶ文面と共に近々館にて晩餐会を開く旨が綴られており、机には他にも同じような内容と色の違う蝋印で飾られた封書が何通も折り重なっていた。
毎日届けられる手紙のほとんどは自分たち騎士の仕事のものだが時折貴族から贈り物とともに手紙が贈られてくる。王族と貴族の階級は違えど嫌と言うほど身に覚えのある手紙の数々にローデリヒが小さく息を吐く。隣に立つエリザベータが手にした書類を呆れ顔で眺めていた。
「王族と言ってもかなり遠くに連なりますね。実家は大方没落しそうになったので娘を差し出したといったところでしょうか」
別段珍しいことでもない。貴族に産まれた女性はその家の道具でしかなく、ヘーテルヴァーリ家(エリザベータ)のように騎士や他の役職を持つ者の方が珍しい。
「毎年、誕生月に手紙を寄越しています。私たちが菊様を引き受けて手を引くかと思っていました」
「南方の辺境男爵も熱心なことだ」
深紅の双眸を細め呟いた声には少しの関心が混じる。
「……そろそろ頃合いでしょうし、そこまで望むのなら一度赴いて差し上げましょう。菊にも丁度良いお勉強になります。良いですね? ギルベルト」
ローデリヒの穏やかな声に隠された企みに眉間の皺が寄る。ただ招待されるだけでない事は明白だ。
「……いいだろう」
五歳となり家庭教師をつけ他人との付き合いも始めたが、まだ幼い主への負担を考えると本音は拒否したい。だがギルベルト自身もこの男爵とは一度顔を見せなければと思っていたのだ。問題を後回しにする理由はない。
「あんた、過保護すぎると嫌われるわよ」
「うるせぇよ」
珍しくすんなり了承したギルベルトにエリザベータが苦笑する。ローデリヒが返事を綴ろうとしている横でいつもの口喧嘩が始まろうとしていた。
***
自分の領地外へはじめての遠出と長距離での馬車移動に疲れた菊の身体を案じギルベルトがその身体を腕に抱く。五年という歳月で随分成長したと思ったがそれでもギルベルトが優に片手で抱いたまま走り回れるほど軽い。無理をさせていないか身動き一つしないのを不安に思う。その顔を覗けば大きな瞳を瞬かせ小さく微笑んだ。己が案じていたよりも元気な姿に目を細めると不安と緊張で張りつめていたその身体から力が抜け細い腕がギルベルトの外套越しに首へ巻き付く。こつり、と額を合わせて真正面の琥珀を見る。
「俺がいるから大丈夫だ」
前を歩いていた執事が扉の前でこちらを振り向く。視線で了承すればその重厚な扉がゆっくりと開かれた。
贅の限りを飾り尽くした装飾と太陽よりも華やかに輝くシャンデリアが照らす晩餐会の会場に、色とりどりのドレスや夜会服に混じり漆黒の軍服が現れると室内が大きくざわめく。
何処で聞いたのか自分達が出席することを知った暇な貴族達で会場内はひしめき合い、滅多に公の場に姿を現さない十三王子の姿を一目見ようと好奇の目がギルベルトと菊に突き刺さる。だがこの場に恐れるものは何一つない。たとえこの群衆すべてが相手でもこの腕の主を守れる自信がギルベルトにはある。
やがて人々の群が割れ金の装飾で豪華に飾られた男が女性を連れ立こちらに向かってくる。腕に抱いていた菊を降ろし今日の主催へ挨拶を促した。
「本日はこのような華やかな場への誘いをいただき嬉しく思います。プロイツェン王国第十三王子の菊です。そして、こちらは私の騎士のギルベルトです」
ゆっくりとけれど凛とした声が紡がれれば騒がしかった会場が一気に収束する。目の前に立つ男は菊の言葉に満面の笑みを浮かべた。
「遠路はるばるこのような地へお越しいただきありがとうございます。私が今回このささやかな主催を務めさせていただきます、オトフリート・シュタイネルと申します。どうぞお見知り置きください。菊様、ギルベルト殿」
恭しく丁寧に下げた頭を上げオトフリートが促した先にはワインレッドのクロスが艶やかに光沢を出しテーブルを包みその周囲に数脚の椅子が並ぶ。舞踏会は始まったばかりだが幼い菊のために用意したのだろうその席にギルベルトは菊を膝に乗せて腰を下ろした。目の前の席にオトフリートが着けば待機していたメイド達が音もなく静かに給仕し始める。
シャンデリアからの光りを余すことなく反射する小さな杯には葡萄水とギルベルトには食前酒が用意されテーブル上でオトフリートがグラスを掲げると今宵の晩餐会が始まった。
「菊様の護衛が王国随一と言われていたギルベルト殿であることは噂で知っておりましたが、暗殺を恐れ私がお守りしていた菊様を保護したのがまさか貴方だったとは……!!」
「……ああ、その件には感謝している(・・・・・・)。礼を言わせてもらおう」
最初は菊へ今の生活について、好きなことや得意なことを質問していたがその話が護衛騎士へと変わるとギルベルトの過去の栄誉を称賛し始める。オトフリートの言葉に興味など無く演技がかった言葉とは対象に淡々と返すも男はパンを掴んだままの手で腕を広げ首を振った。
「いえいえ、私のようなものにできたのはあのくらいです。菊様がこんなにも大きくなられたのもきっと貴方のお力あってこそでしょうな」
主賓である王子に取り入る必要はもうないのかギルベルトを見据える。まるまると肥えた顔に収まる瞳がぎらりと輝き先ほどまでの人の良い笑みは消えさっていた。その下卑た微笑みが続ける。
「私は貴方を高く評価しているのです。――そして、期待も」
「……」
「騎士団を去った貴方がもう一度世に返り咲くために、どうでしょう。私の元へ来る気はありませんかな?」
それまで頭上の会話に静観していた菊がびくりと身体を震わせる。腰に回していた手で菊の腿を優しく叩けば小さな両手がギルベルトの裾を掴んだ。
「……それは俺を引き抜く、と?」
会話から感じていた違和感。晩餐会の目的は菊とのお目通りではなく護衛である自分の誘いだったのか。
「ええ。私の妻は王族の家系です。今度こそ必ずや満足のいく名声を手に入れられましょう。菊様もそろそろお年頃だ。少々手の掛かる頃ではないのですか?」
ギルベルトの言葉ににたり、とその笑みを深くする。主の目の前で堂々と、皮肉ですらないその言葉に腹の底が冷えていく。自らは名のある騎士を手に入れ邪魔な王子はその後にゆっくりと消す。歪んだ顔がその男の全てを物語っていた。
「……ギルは、何処かに行くのですか?」
難しい会話に水を差せまいと黙っていた菊が声を震わせギルベルトを見上げる。その顔は不安に琥珀の瞳を滲ませて今にも涙が零れるのを必死に耐えていた。
ギルベルトの胸に痛みが走る。
「菊様、隊長さんとは離ればなれになりますが菊様はお強い子ですから大丈夫でしょう?」
「だ、駄目です! ギルベルトはあげません。菊のです。ギルは菊のです!」
オトフリートの言葉に菊が叫ぶ。その瞳は強く目の前の男爵を睨みつけてほのかに淡く輝く。
「菊……?」
「ぎる、は……っ! ……ふぇっ……」
「……おやおや、泣かせてしまいましたか。申し訳ない。まだまだ子供でしたな」
自分に似て感情の起伏が少ない菊は滅多なことでは声を荒げることはない。ましてや泣くことも稀だ。自身の激情を叫んだことで感情のコントロールができず泣いてしまった菊をなだめるよう小さく囁くと己の胸で震えていた身体が止まる。
「それにしてもこれではせっかくの食事もままなりません」
「……菊」
「っ……はい。だいじょうぶ、です」
相手が例え自分に好意以外(敵意)を向けていたとしても今は晩餐会だ。この場で泣き叫んでいられないことを菊も理解している。頬に流れる涙をガーゼで優しく拭えばその瞳は琥珀に戻っていた。
「最近、若くて腕のいい元王族専用料理人を迎えまして。味は保証いたします、どうぞ続けてお召し上がりください」
ギルベルトが自分の元へ来ることを妄信したオトフリートが食事を勧める。目の前に並ぶ食事を一別し、手を出さないよう菊を制した。
傍らに控えていた給仕に預からせていた物をテーブルに並べさせる。現れたのは自分たちが普段食事で使用している銀食器だ。
「…………ギル?」
「菊様には専用のカトラリーを持参しているので使用しても?」
「え、ええ。もちろんです。……どうぞお使いください」
晩餐会では出席者自らが食器を持参することが普通のためおかしいことではない。テーブルにあらかじめ用意されていた金色のカトラリーが下げられていく。
「末弟とはいえ菊様は金の子。他兄弟から疎まれることもあるがその命を狙う者もいる」
「……それは隊長殿からすればさぞ難儀なことでしょう」
「外敵からの襲撃は我々騎士がいるため問題ない。――だが」
銀のスプーンでターチュ・リエ(海亀のスープ)を数回かき混ぜる。丁寧に灰汁抜きをされ皿の底が透きとおり濃い琥珀が美しいとろみをきかせたスープは他に用意されていたものに比べ冷め切っていた。
「毒殺……食事に毒を盛って殺害しようとするのが一番厄介だ。丁度、こんな風にな」
「……っ――!!」
手にした銀のスプーンが黒ずむ。こんな古典的な方法とは舐められたものだ。
「銀の食器は毒に反応する。爵位を持つほどの人間がそれを知らぬはずがない。ならば答えはひとつ」
「な、なにを……毒とは! わ、わたしは知りませんぞっ!!」
毒という言葉に周囲が急激にざわめき始める。オトフリートが勢いよく椅子から立ち上がり己の潔白を叫んだ。
「……誰かが……そう、料理人の仕業だっ!! そうに違いないっ!!」
「オトフリート・シュタイネル」
「――ッッ!!」
狼狽する男の名を告げる。
「使える主が居なくなればお前の元に行くとでも思ったか? 笑わせる……富も名声もこれ(菊)に比べれば無価値でしかない」
腕に抱くこの小さな存在(菊)だけが灰色のただ過ぎゆく世界にひかりを与えた。ギルベルトを誇り讃える菊の言葉はどんな名誉にも勝るだろう。
「……っい、言わせておけば貴様ッ……!! 貴様など元団長の名(その肩書き)がなければただのクズでしかないのだぞっ!! たとえバイルシュミットといえど!!」
「……本音はそっちか。自分より爵位の高い人間を服従させて愉悦に浸りたかったのか? つくづく豚共の思考は理解できないな」
自らの爵位が上がらないのであれば身の回りを着飾り自身の価値をあげる。そんな欲でしか自尊心を保てない人間にギルベルトが仕えるはずもなく。
「公爵家の跡継ぎですらない分際で刃向かうなど!! 身の程知らずめ!!」
「ギルッ…………」
けたたましく扉を開いて現れた私兵がギルベルトと菊を取り囲む。この場の敵は十数、屋敷全体を合わせ用意されていても五十程かと思案する。招待客たちは自分たちに火が及ばぬよう部屋の隅に集まり中には混乱に泣き叫ぶ者も現れ始めていた。賑やかな広間が一変し張り詰めた空気が自分たちを中心に充満する。
エストックを構え自分たちを囲む輪の中からゆっくりと男が一人近づく。白い厨房服に似合わぬレイピアをこちらに向けて投げつけると今度は帽子を捨てた。
「Bonjour. せっかく俺が丹誠込めて作った料理に毒を盛るなんて食への冒涜だよねぇ?」
「フランシス!」
「Oui. 俺の小さな主様。ご機嫌はいかがかな?」
緊張したこの場にそぐわぬフランシスの声に菊の表情が晴れる。ギルベルトに抱かれた菊へ片目を瞬かせ殊更恭しくお辞儀するその姿は洗練された騎士の姿。
「フランシスの料理を楽しみにしていたのに残念です。遺憾の意、です!」
「ははっ! 菊様の食いしん坊は相変わらずだな」
「ボヌフォア! き、貴様っ……」
男爵自ら招待した料理人(フランシス)がギルベルト達と仲良く会話する意味をようやく理解したのか余裕の笑みを浮かべていたオトフリートが叫ぶ。
「裏切り? Non,non. 確かに俺は王族専用料理人……でも元じゃない。現役さ?」
「……フラン」
「おう。ギルベルト。お前さんの武器もしっかり預かってるぜ」
腰に下げていたフランベルクを外しギルベルトへと渡す。ギルベルト達を後ろに背に指したエストックを抜きさるともう一つのレイピアと共にゆっくりと構えた。
「……最初から、分かってここに来たのかっ……!!」
「いい加減目障りだったからな。お前のご希望通り出向いてやっただけだ」
「クソっ!!」
手早くフランベルクを装着し再び菊の身体を抱き上げる。床に刺していたレイピアを右手(・・)で抜き、目の前の敵を見据えた。
「だが元騎士団長といえど一度にこの人数は対処しきれまいっ!! 王国の逆賊としてその餓鬼と共に死ぬがいい!!」
「……菊」
オトフリートを見つめていた菊を呼べば自分へと顔を向ける。
「俺に掴まっていろ。良いと言うまで顔を上げるなよ」
「っ……」
ギルベルトの言葉と部屋を充満する緊張からこれから戦いが始まるのだと理解する。
「大丈夫だ。何も怖いことはない」
「……はい。ギルベルトは強いですから。大丈夫です。大丈夫」
自身を安心させるかのように何度も呟く。できることなら無血で済ませたかったが相手が望むのなら応戦するまで。流れる血は最小限に。無用な殺生は主の前では不要だ。
ギルベルトがその足を男爵へ向けゆっくりと歩き始めた。
「そんな……化け物、だ……」
倒れたテーブルに掛かる白いクロスは血に染まり、綺麗に磨き上げられた床は傷にうめき倒れる者達が転がる。戦意を喪失した者は皆、青ざめた顔でただ一点を見つめていた。
「……つまらん戦いだ。準備運動にすらならない」
血に染まるレイピアを見つめる。菊を抱いたまま黒の軍服に乱れた様子もなく平然と佇むギルベルトの顔には一切の感情はない。ただその瞳は真紅と青に輝いていた。
「冷酷無慈悲(騎士団時代)を知る人間は誰一人協力しなかっただろう? ……――銀の子を見誤ったのがお前さんの誤算だよ」
髪を大きく乱し体中を血で赤く染め、座り込んで震える男へフランシスが告げた。
***
南方男爵による第十三王子暗殺未遂。その事件から二月が経過しようやく事の全貌が明らかとなった。調査報告書は数十枚にも及び暗殺計画の立案者はギルベルト達が予想していた者の一人。
「計画は第四王子とその臣下の者とのことです……兄弟が手を組んでいたにしては随分とお粗末でしたね」
目の前に積まれた資料と報告書の山を眺めローデリヒはため息をこぼす。赤ん坊の菊を隣国との戦争に利用しようとしてギルベルト(直前)に失敗。なおも暗殺の機会を狙うが菊を守るのがかつての騎士団長と騎士団の実力者であれば適うはず無く。ようやく成長し外の世界へと現れた今がチャンスだと早計に計画したものは余りにお粗末だった。
「……元騎士団長(ギルベルト)の実力を計り損ねたのが敗因でしょう。私達からすれば”どうしてその人数で勝てると思ったのか”と、はなはだ疑問ですが」
エリザベータがギルベルトを見て苦笑う。
「結果、第四王子は王位継承権を永久剥奪に監視付き。関係していた臣下は全て処刑――」
計画に関わっていた者、その末端まで数えると数十は越える。
「……」
「何か気になることでも?」
資料の一部を睨みつけたまま沈黙しているギルベルトへ問う。
「領土没収でもなければ処刑、か。低いとはいえ爵位と王族の家系をこうもあっさり切り捨てるとはな」
「この国で『運命(さだめ)の子』に手を出せばどうなるか。王族も自分たちの未来がかかっていますから今回のことは見せしめの意味もあるのでしょう」
そこはローデリヒも気になっていたところだが暗殺対象が王族の金の子と、巻き込まれた形になったとはいえ公爵家の銀の子も含むとあれば王家も厳罰に対処しなければならないだろう。かつてこの王国の前は運命の子によってその定めを左右されてしまったのだ。
「それとも彼らも謀られていたのかも知れません。その真相は今となっては分かりませんがこれでお馬鹿なことを考える者も減るでしょう」
末弟の運命の子であるが故に王位継承権は持たないがその存在自体が他の兄弟にとって自らを脅かす火種でしかない。疎む者もいればいっそ消して安心したい者もいるのだろう。
だが菊を狙うのであればかつて国の内外にまでその実力を轟かせた王国の元騎士団長であり銀の子と、人の数倍の力を持つ強化人間が相手では到底勝ち目などない。平穏無事な日々が続くのを祈るばかり、とローデリヒがごちる。
「そうであってほしいです。ただでさえうちは人員不足ですから余計な手間は少ないに限ります。あれから菊様、庭に出るのも怖がってしまって……当面外出は無理そうですね」
「おや、昼間ギルベルトと一緒に散歩していましたが?」
資料を運ぶ途中に庭園を通れば菊に手を引かれたギルベルトが午後の日差しがあたたかに降り注ぐ庭をゆっくり歩いていた。その光景のまばゆさにローデリヒは思わず足を止め暫く様子を眺めていたほどだ。
「……」
「……なんでアンタだけ」
「ふん……ローデリヒ、報告はこれで終わりだな?」
「ええ。そうですが?」
夕餉も入浴も済ませたこの遅い報告会のあとには特に予定は無かったはずである。ローデリヒが顔を向けるとギルベルトはすでに扉の前へ立っていた。
「主が呼んでいる」
「……そうですか」
懐中時計を眺めれば時刻はもうすぐ日付を越えようとしていた。夜更かしは禁止していたが今日ばかりは大目に見てもいいだろう。卓上の書類を整理しようと手を伸ばすと静かな部屋にぽつりと声が響いた。
「育て方を間違えてしまったんでしょうか」
扉を見つめるエリザベータがこぼした言葉を考える。
「……それはどちらに?」
「え? ああ……両方、なんですかね」
未だ小さな主とその騎士と。二人の距離は自分たちが知る主従のそれよりも近くて深い。
「まぁこういうのはなるようにしかなりませんよ、エリザベータ。我々は二人が道を違えぬよう示すだけです」
「……はい。そうですね」
ギルベルトがあの日見つけたひかりは少しずつその輝きを増し周囲を照らしている。その成長がギルベルトと共にあることならば自分達はそのひかりが陰らぬよう全ての憂いを払うだけだ。
灯りを落とした寝室の小さな光が緩やかにかかるカーテンとベッドを照らしている。寝衣に身を包んだ菊はギルベルトが来るのを待っていた。普段はこんな夜更けまで起きていると怒られてしまうが今日だけは特別だ。睡魔に負けて眠ってしまう日もあるが今日は昼寝をしていたせいもありまだ眠気は訪れない。
寝室のドアが静かに音を鳴らす。と、すぐにカーテンが優しく開かれ菊が待ち望んだ人物が姿を現した。
「…誕生日プレゼントだ」
「っ! ありがとうございます。ギルベルト、開けても?」
ギルベルトはその手にした箱を渡すとベッドの端へと座り嬉しそうな顔でいっぱいの主を見つめる。はやる気持ちを抑えて丁寧に開いた箱には上質な絹糸で作られたタッセルが並んでいた。
「同じものがふたつ?」
「これは耳飾りだ。左右に付けるため対になっている」
「対に……」
ビロードが敷かれた底からゆっくりとそのタッセルを取り出す。さらさらと指に流れるタッセルを包む金属部は繊細な金細工が施してあり掲げた耳飾りと自分を見つめる穏やかな赤が並んだ。
「これ、ギルベルトの瞳と同じ色です。赤くて、とても綺麗……」
「――そうか」
菊の言葉にギルベルトは胸をなで下ろす。いつだったか己のこの深紅が好きだと言った言葉は変わっていなかった。
「……菊?」
光に照らし耳飾りを見ていた顔が突然陰る。その小さな唇は引き結ばれ、ギルベルトは静かに言葉が紡がれるのを待った。
「……ギルは、何処にも行きませんか? 菊から離れていきませんか?」
手にした耳飾りを見つめか細い声で菊が言葉にしたものはギルベルトが予想していないものだった。
「ああ。何処にも行かない。ずっとお前の隣にいよう」
晩餐会での言葉が菊の心に不安として残り、あれから穏やかに過ごしつつも時折思い出しては胸に小さな痛みを生んでいたのだろう。そのことを思うとあの男をもう一度処刑し(殺さ)なければという仄暗い闇が胸に滲む。
「なら、片方はギルベルトが付けていてください。二つでひとつの対なのでしょう?」
小さな手がそっとギルベルトの手に添えられた。
「ギルが何処にも行かないように。うんと、うんと頑張ってギルベルトに相応しい主になります。私は騎士ではないから、騎士の誓いはできないけれど」
金の瞳が光を反射しきらきらと輝く。
「ギルがくれたこの耳飾りに誓います。だからギルは、私の騎士である限りこの耳飾りをつけていてくださいね」
「……ああ。承ろう」
己を見つめる光がまぶしく目を細める。ギルベルトの短い返事に再び菊がその顔をほころばせて笑う。
「ふふ……ギルとお揃いです」
自分の予想以上にどうやらこの耳飾りは気に入ったらしい。耳飾りを箱に戻しサイドチェストへ置けば夜更かしは終わりだ。
「気に入ったのなら毎年贈る」
「本当ですか? では色は銀と金、あとは青も!」
ベッドに身体を預けその小さな身体に腕を伸ばす。抱え込んだ身体が小さく身じろぎするとゆっくりとその瞼は閉じ、やがて静かな寝息だけが二人の寝室に響いた。
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