現在執筆中の、新刊の予告のような、サンプルのようなものです。まだ原稿は白い。
【ことりの森】
序
本田菊は『人形』である。
彼と親しい人間から印象を聞けば返ってくる言葉は示し合わせたかのように同じものだった。
「えっとねー…うん。人形、かな。黒い髪はしっとりしていてさらさらと揺れて。興味を持ってその髪に触れようとすると俯いていた顔があがってね、ぱちりと瞬くと吸い込まれそうなほど煌めいた黒曜石のような、琥珀の瞳が覗くんだ。俺たち人間の心を」
普段は人好きの笑顔を絶やさぬ友人が、そのハニーゴールドの瞳を開いて忠告する。
「…人形やざ。食い意地の張った。なん、お前興味あるんけ？」
くわえていた煙管をゆっくりと外し、そいつにしては珍しく相手（俺）の顔をじっと見ていた。そしてたとえ仕事のお得意先だろうと殆ど他人の事情に踏み込むことをしないそいつが聞いてくる。
これは警告だ。
本田菊という人物に興味を示す人間に対する忠告と警告。
それでも踏み込もうとする人間に用意されるのは最終試練だ。
「あいやー。お前がバイルなんとかあるねー。まったく欧米は長くて覚えにくいある。お前なんて不憫で十分ある」
「誰が不憫だ。誰が。後でそれは訂正させてもらうけどな」
本田の義兄と名乗ったその東洋人を俺は何度か目にしたことがある。俺の名前もこの義兄の職業柄、当然知っていてもおかしくない。
「…本田菊の印象を聞こうとすればどいつもこいつも同じ答えを出してくる。だがな、俺様は―」
＊＊＊
初めて目にしたのは新緑の頃。予約した時間を一時間すぎ、二時間過ぎた昼下がりに本田は慌ててやってきた。急いで歩いてきたのか額に浮かんだ汗をハンカチで拭いながら遅れてきたことを詫び頭を下げる。
車を持たない奴には都心からここまで来るのに電車とバスを乗り継ぎ更に徒歩という過酷ぶりだ。無理もないだろう。
自身は規則と時間には厳しいが、この施設の、ましてやはじめての利用者にそんなことで怒るような自分ではない。
待つのには慣れていた。
「遠かっただろ。とりあえず休憩がてら飲み物出すからあっちに行っててくれ。俺もちょうど休憩入れるところだったしな」
上げた顔ににかり、と笑えばそいつの眉尻が少し下がった気がした。
聞けば家を出てから五時間以上かかったという。電車の乗り継ぎが思うようにいかず遅れる旨を入れようとしたがPCメールしか連絡先を知らなかったので入れても入れなくても同じだと判断したらしい。
真夏のいつもより日差しが照りつけるような日に、館のすぐ横に流れる小川で水浴びついでに小魚でも捕ろうとパンツ一枚で奮闘していた時だった。
「………」
川の縁まで来てただ黙って自分を見つめている小さな人影に気がつく。顔を上げれば本田がなんとも言えない表情で自分を見つめていた。
「お、なんだ。本田もやるか？魚がいんだけどよ、なかなか捕れねぇんだよ。やっぱ網じゃなくて銛作るか」
「少しお聞きしたいことがあって探していました…。私はご遠慮しておきます。着替えを持ち合わせておりません」
そういうと本田は小さくため息をついて俺様から視線を外す。その顔には少し、ほんの少し唇が上がっていた。
結局は嫌がる本田を捕まえて小川にダイブしたが。
館を覆う木々が黄色く色づく頃に一悶着あった。それから本田は俺様を避けるようになり、それが気に入らない俺は使える手段を使い無理やり本田を呼び出して告白をした。
「…私は人形です。意思を持つ。けれど心はありません。私は誰も愛さない」
以前、自分を好きだと言った人間とお付き合いをしたことがあるという。自分のみてくれに興味を示し、自分が愛する保証はないという本田の言葉にも男は頷いてお付き合いが始まった。
男は最初は本田の興味をひこうとあれこれ世話をし構っていたが男自身の仕事が多忙になり、思うように結果が出ないことにも苛立ちが募ったのだろう、ついには手が出始めたという。
その後の展開は転がるようにあっという間だ。
本田菊と交際していると表では照れ笑いをしている男は仕事の合間に女を作り、部屋へ帰ってくれば変わらぬ本田に手を出し、それでも諦めきれないのか後になってか弱い声で縋る。
胸糞の悪くなるその生活に終止符をうったのが友人だった。
「癇癪ばかり起こす子供に菊がもう付き合うこともないよ。今までので十分わかっただろう？お付き合いごっこはお終い」
男の仕事場に本田と一緒に現れ、フェリシアーノから彼との別れを告げられる。
どうやって手に入れたのかゲストのカードを胸から下げ撮影現場に突然現れた恋人の本田先生と見知らぬ外国人。
多くの共演者とスタッフに注目されながら流暢な日本語で冷ややかに浴びせられた言葉に、男はただ黙って立っていたという。
「別に俺様はお前が人形だろうと人間だろうと関係ねぇよ。本田菊に興味を示して好意を持った。そんで、この感情が抑えきれないから告白をした。お前が俺様の気持ちを信じられないっつーならそれは俺様を知らないからだ。そうだな…まずはお友達から始めようぜ。俺様が絶対、お前に愛を教えてやる」
元恋人と同じ始まりだというのは気に食わなかったが俺様はこいつを諦めるつもりはない。
くしゃみをして飽きることもあれば毎日欠かさず日記をつけるマメさもある。だが努力は惜しまず忍耐強い一面も持ち合わせている俺様の、本田菊への感情はこの時にはすでに愛情の一言だけでは表せないものだった。
